海事問題調査委員会中間報告その3(平成23年5月)
安全と環境―――生物多様性―――
委員長 赤峯 浩一
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本論に入る前に、先ず今回の東日本大震災により被災された方々に心よりお見舞い申しあげます。また一刻も早く、通常の生活に戻られることをお祈り申しあげます。微力ではありますが、海事問題調査委員会も出来る限りのご協力を致す所存です。
本論に入る前に、先ず今回の東日本大震災により被災された方々に心よりお見舞い申しあげます。また一刻も早く、通常の生活に戻られることをお祈り申しあげます。微力ではありますが、海事問題調査委員会も出来る限りのご協力を致す所存です。
さて、当委員会は、昨年会誌・海洋の8月号(平成22年版)にて「今世紀は、低炭素化社会の成立」と謳われ縷々ある中、温室効果ガスについて、報告いたしました。
今回は、環境問題のなかでは、実は温室効果ガスよりも問題的には大きいとも言われていますが、会員の方々にもあまりなじみのない「生物多様性」について報告いたします。
今回の大震災では津波による破壊、また放射能問題とまさしく安全と環境問題は一体となっていることが改めて確認されることとなりましたが、地震を発端とする様々な事象による「生物多様性」への影響も大変心配されるところです。
1.序論・生物多様性とは
2010年夏、日本では「113年間の観測史上最も暑い夏」となった。異様な夏を経験したのは日本だけではない。ロシアでは高温のため各地で森林火災が相次ぎ、また、パキスタンや中国は洪水に見舞われ、多くの被災者が出ることとなった。多種多様な環境問題がある中、「環境問題」といえば、地球温暖化問題を思い浮かべがちであるが、温暖化問題は、地球規模であり、そのメカニズムも比較的理解しやすいため、今では一般に広く理解されている。一方、今回のテーマである「生物多様性」は、本質を掴みづらく、また説明もしにくい。それは、生物多様性問題の特徴である複雑で地域的な面が一因であるとも考えられる。
昨年2010年は、国連が定めた「国際生物多様性年」であったため、それに合わせて国内外で様々なイベントが開催された。そして、日本では生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が愛知県名古屋市で開催されたこともあり、生物多様性は一躍注目を浴びた。特に国内のメディアでは、連日、生物多様性についての特集が多く組まれていた。環境問題では、CO2の次は生物多様性だ、などという声も聞かれた。しかしながら、ここまで話題になっていても、今一つその重要性が理解できないというのが本音である。また、生物多様性の保全の必要性は理解できたとしても、そのために何をすべきかについては難しい問題である。本来は、身近であるはずの生物多様性問題の解決策を考えるためには、まずは生物多様性の基本と特性を理解するところから始めたい。
2.概要
一般的に、生物多様性とは地球上の生物の多様さと自然の営みの豊かさをさし、下図のように大きく3つ(生態系・種・遺伝子)に分類される。地球上には、様々な生態系があり、その中にいろいろな生物が存在している。また同じ種間でも、遺伝子の違いにより、形や色などが異なる。3つのうち1つに異常が表われれば、やがてその他にも影響し、地球全体の生態系が崩れていく。近年、人間の経済活動により、長年それら3つがうまく作用し保たれてきたバランスが失われつつあると言われている。森林伐採や海洋汚染などによる生態系の破壊や、動植物の密猟・乱獲などによる絶滅危惧種の増加などがそれに当たる。
それでは、この生物多様性を保全するための条約はいつ成立したのか。実は、生物多様性条約も気候変動枠組み条約と同じく、1992年6月にリオデジャネイロで開かれた地球サミット(国連環境開発会議)で採択されている。そのため両条約は双子の条約とも呼ばれている。その後、生物多様性条約は1993年12月に発効し、2011年2月現在、193の国・地域が参加している。また、アメリカ合衆国は条約に署名しているが、批准していない。この条約の大きな3つの目的は以下の通りである。
1) 生物の多様性の保全
2) 生物多様性の構成要素の持続可能な利用
3) 遺伝資源の利用から生ずる利益の公正で衡平な配分(ABS)※
同じく生物に関する条約であるワシントン条約※やラムサール条約※が既に存在していた中で、なぜ本条約が改めて策定されたのか。その意義としては、特定の行為や生息地のみを対象とするのではなく、生物多様性の包括的な保全を目指すためである。また、保全するだけでなく、持続可能な“利用”を目指している。
※遺伝資源の利用から生ずる利益の公正で衡平な配分(ABS):
Access and Benefit-Sharing
先進国が開発途上国の生物遺伝資源を生命科学・医学分野などに利用した場合、その代価を義務的に支払わなければならない。例えば熱帯植物のパパイヤで抗がん剤を、ヘビ・サソリの毒から鎮痛剤を抽出して開発すれば、それに伴う利益を遺伝資源提供国にも一定部分配分しなければならない。
※ワシントン条約:
Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora
絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約
※ラムサール条約:
Convention on Wetlands of International Importance Especially as Waterfowl Habitat
特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約
3.生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)
日本がホスト国を務めたCOP10が、2010年10月18日から29日まで愛知県名古屋市で開催され、179の締約国、関連国際機関、NGO等から13,000人以上が参加した。主な議論は、①ABS議定書(名古屋議定書)、②ポスト2010戦略計画(愛知目標)、そしてそれを達成するための③資金動員計画である。その中で途上国側からは、上記のうち最も困難を極めていたABSを巡る問題(生物遺伝資源の利益共有に関する議論)を解決しない限り、その他項目については議論を進めないという“セット採択”(パッケージ・ディール)が要求された。膠着状態が続いていたところ、29日に残り半日の時点で、松本環境相が各国に議長案を示した。これにより、締約国すべてが上記3つに合意するかたちで、COP10は幕を閉じた。つまり同時に、条約が採択されて以来これまで18年間行われてきたABSを巡る議論も終わった。
そもそもなぜ、途上国側は遺伝子資源問題にこだわるのだろうか。彼らとしては、自国内の有形物(自然資源)が枯渇してしまった場合、消耗することがない無形物(遺伝子資源)がお金になれば、今後持続的な資金源になるとの考えがあるようだ。先進国側としては、無償で今まで利用できたものが原材料コストに変わり、コスト増に繋がり得る。50カ国以上の批准が必要な名古屋議定書が発効するのは1~2年後と予想される。条約発行後は、原産国と利用企業がそれぞれの案件ごと、個別交渉することになる。
2.で紹介したとおり、生物多様性条約の目的の一つに生物多様性の保全がある。そのイメージが先行するため生物多様性条約といえば、漠然と「いきもの」や「里山」などを思い浮かべるかもしれないが、本来もっとお金と結びついたものであるといえる。つまり本来、生物多様性条約は“途上国支援条約”であり、資金・人材・技術を先進国から途上国へ移転するための条約なのである。
4.生物多様性とビジネス
生態系と生物多様性の経済学(TEEB)※の試算によると、生物多様性を失うことによる経済的損失は毎年2~5兆ドルにものぼる。これは世界経済の3~7%という非常に大きな値であり、気候変動と同じくらいのインパクトと言われている。地球温暖化対策でいえば、企業は軒並みCO2排出量削減目標を掲げ、数年前では考えられなかった程様々な対策を実施している。一方、生物多様性への企業の認識は限られており、取組みを始めたばかりというのが現状である。また、自社の製品やサービスは生き物とは直接関係がないため、生物多様性との接点はないと捉えてしまう企業が多い。しかし、製品やサービスのライフサイクル全体で見ると、あらゆる企業活動は、原材料調達、生産、流通などの各段階で資源の利用、土地利用や水域・大気への影響など様々な接点がある。ここでは、海運業を例にその関連性を説明したい。
生物多様性の損失に直接つながる5つの要因 |
一般的に、企業活動は右図のように5つの要因のいずれかと関連があると言われる。海運業では、②外来種の移入、③汚染、④気候変動との関係性が深いと言われており、外来種の移入、特にバラスト水※による海洋生物の越境移動が世界的な問題になっている。この水に含まれる海洋生物や細菌が、本来の生息域以外で異常繁殖し、海洋生態系や漁業などに悪影響を与える可能性があるのだ。これを受け、IMO(国際海事機関)が一定の水質基準を満たさなければ排水できないという国際規制※を2004年に採択した。現時点(2011年2月)では未発効だが、今後1~2年以内に発効するのではないかとされている。バラスト水対策の一例として、NYKでは条約発効に先立ち、自動車専用船「エメラルドリーダー」に国土交通省の型式承認を受けたバラスト水処理システム※を2010年9月に搭載した。現在保有・管理する船舶への搭載検討を順次進めている。
また北米では、東アジアやロシアなどに存在するマイマイガ(AGM: Asian Gypsy Moth)が、船舶やその貨物を経由して北米大陸へ侵入することを危惧して防止策を講じている。アメリカ・カナダ・メキシコの植物検疫機関で組織されたNAPPO(North American Plant Protection Organization)は、危険度が高い東アジアの港を出港した船舶に対してAGM不在証明取得の義務化などの対策をとっており、今後更に規制の強化も予定されている。各船社では、検査機関発行の不在証明書の備え付けなどの規制遵守に加え、自主的に入港前のクルーによる船内チェック及び駆除を行っている。
上図は、企業と生物多様性イニシアティブ(JBIB)が開発した「企業と生物多様性の関係性マップ」を参考に、海運業のライフサイクルと生物多様性への影響、及び関係した当社の取組みを纏めたものである。船を調達する・運航する・処分する、などの全過程において大気汚染、海洋汚染、外来種の移入など生物多様性を脅かす可能性がある、ということが把握できる。また、悪影響を低減するための対策として、船を造る(調達する)段階では船体抵抗を少なく、また太陽光発電を利用するなど、環境に配慮した船の設計を模索している。運航する際は、安全運航の徹底、バラスト水の適正管理や陸上電力を使用するなどしている。そして解撤する際には、環境に配慮した中国の指定ヤードで行う。このように、事業と生物多様性の関係性を可視化することが、生物多様性の保全対策を進める上での第一歩となる。
※バラスト水:
船の空荷時に船体動揺を安定させるために船腹に積む水のことで、一般に揚荷港で注水し、積荷港で排水する。
※生態系と生物多様性の経済学(TEEB):
The economics of ecosystems and biodiversity
生態系と生物多様性が経済に与える影響などを研究した報告書
※バラスト水の国際規制:
2004 年2月ロンドンで開催された国際海事機関(IMO)会議で採択された船舶のバラスト水および沈殿物の規制および管理のための国際条約。2009 年以降に新しく建造される船舶にはバラスト水を適切に処理する設備を備えていることを義務付けている。30カ国が批准し、かつ、それらの合計商船船腹量が世界の35%以上となった日の12カ月後に発効されることになっている
※バラスト水処理システム:
バラスト水とともに運ばれた海洋生物を処理し生態系を乱すことのないようにするシステム。バラスト水管理条約が発効されれば、本条約に定める処理基準を満たすため、全ての外航商船にバラスト水処理システムの設置が義務付けられる。また、新造船・既存船の順に2017年1月にかけて順次規制対象が拡大される。
5.身近な生物多様性
我々は私生活の中でも、気が付かないうちに生物多様性の恩恵を受けている。バイオミミクリーという言葉を聞いたことはないだろうか。これは生物模倣と訳されるが、人間社会の問題を解決するため、自然の仕組みやプロセスを研究し、模倣したりインスピレーションを得たりする新しい科学のことである。バイオミミクリーという言葉が普及したのは、最近であるが、身近な自然から学ぶ技術開発の歴史は長い。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチが鳥の翼を観察して飛行力学の知識を得たのは、500年も前のことである。そして
この考えを利用した製品は私たちの周りに知らない間に多く存在している。例えば、新幹線の先頭車両は空気抵抗や騒音を減らすため、カワセミのくちばしをヒントに開発された。また、面ファスナー(マジックテープ)は一般にひっつき虫と言われる植物類(オオオナモミ等)種子の表面にあるフックのようなとげの先端をヒントに発明された。
また、海運業に不可欠な船舶技術の世界では、さめ肌機能の応用が考えられている。その機能が競泳用水着に採用されたことは記憶に新しく、小さな突起状のうろこの先端にある溝に生じた小さな渦が水流の流れを吸収して摩擦抵抗を減らしている。日本郵船の未来のコンセプトシップ「NYK Super Eco Ship 2030」でも船底にさめ肌塗装を施すことで、摩擦抵抗削減を目指している。
このように世の中にあふれているバイオミミクリーの情報を纏めているAsk Natureというインターネットサイトがある。これは生物の情報を体系的にまとめたデータベース形式になっており、アメリカ人サイエンスライターのジャニン・ベニュス(Janine Benyus)氏設立のバイオミミクリー研究所(The Biomimicry Institute)により運営されている。Ask Natureでは、世界中の人々が自然を模倣して何かを作り出そうとするときに、必要な情報にアクセスできるようにすることを目指している。
生物多様性は幅を持つ概念であるため捉えづらいが、その分応用が利くという利点がある。前述の通り、事業活動とも切っては切れない関係である。まだルールや議論も発展途上にある生物多様性、うまく取り入れていけばバイオミミクリーのようにチャンスにもなりうる。
海事問題調査委員会
委員長 赤峯浩一
塚本達郎 竹井義春 花原敏朗 武田和彦 藤澤昌弘
鈴木勝朗 鐘ヶ江淳一 山内章裕 丸本秀一